ぼぼりはこうして生まれた!
今まできちんと明かされたことのない、ぼぼり誕生秘話。
『お商売上の戦略』と称して、嘘をついても大丈夫と言う考え方によって、真実と違うことをあたかも真のお話としてお話されてしまっていた悲しい時期がぼぼりにもありました。バカ正直にしか生きられない私は、本当に歯がゆい思いをしたものです。戦略って何?ただ、お客さまに嘘つくだけじゃない?って。
しかも、世の中は不思議なことに、口が上手な人の言ったことは信じてしまう信じたい、信じたい人がいるのも事実です。それと、常識の枠の中で考えたらこれが通常の理かしらという思いこみが一般の人には誰にでもあるのも事実です。だからある程度年齢がいった人がお店というのは経営しているであろう、男の人が経営者であるに違いない、こんな若い女がアイスの味を考えて新作メニューを作っているはずがない等々。威圧的で、高慢的で、イニシアチブをとって常に相手のよりも優位に立つような話術を持っている人のことを信じてしまう、自分に自信のない人も何故かいっぱいいます。(そうじゃなきゃ、怪しげな健康食品販売会社に破産するほどのお金をつぎ込んだり、根拠のない占いを信じて、みんなで「ご唱和」することに心酔しちゃうなんて、普通の神経の人からしたら考えられないですもんね。)
しかも、日本には知的所有権と言う考え方が理解され難い土壌です。経営的にお金を出した人が、どうしても優位に立つようになっています。その人には何のアイデアがなくても。
結果、戦略と称して嘘を言うことも起きる訳です。だって、もともと自分が考えたことでないことをちゃっかり借用して自分が考えました、こういうことでお店をやろうと思いましたと無理に言おうとするからです。
以前、こういう方がお店に居ました。私が一時期お店を離れていた時の事です。店長としてやってらしたその方、その方はお酒が大好きなかたで、甘い物は一切食べないという方。でも、ちょっと考えれば甘い物を一切食べられない人が店長としてお店に立っていて、商品を扱っているということも、変じゃありませんか?それで、「お客さんがうちのアイスはどこにもない味だっていつも言ってくれているから私も自信をもって胸はって売れるんだよ。」って言うのは可笑しくありませんか?だって、今日のアイスの出来とかチェックすることが出来ないんだから。しかも、オーナー夫人ではない彼女が、自分をオーナー夫人と名乗ったりしていたことも、後からお客様から教えていただき聞き及びました。
戦略、私は本当に変な話だなぁと、思っていました。
勿論、戦略だけで大成功していらっしゃる飲食店もたくさんありますから、一概に戦略がどうこうということは言えないのですが、私は嘘をつくのもつかれるのも大嫌いなんです。兎に角、厭だったんです。
利益優先、戦略優先という考え方にどうしても共鳴できなかった私ですが、今は真実を話したい、話さなければと思います。
折しも、一昨年の雪印事件、昨年の狂牛病問題、今、一般の消費者は食物というのもに対して何を信じていいのか判らなくなり、食品メーカーを懐疑的な目で見、「結局何を食べても同じだよ、だってラベルさえ貼り替えちゃうんだから。しかもお役人や官僚は罪のなすりあいで責任の所在を明らかにしないで焼き肉を食べるパフォーマンスばかり。」と思っています。今まで一生懸命良い食べ物を作ってきた生産者さん、それを世に広めようとしてきた販売者さん、正直者はこんなことでは浮かばれません。
ですから、食品を製造し販売することを生業としている当店の考え方をはっきり表明し、今回を機に、より情報を開示してお客様に安心してお買い物をしていただける店づくりをしていきたいと思っています。
実際には、私は経営者としてはかなり無能かも知れません。何故なら、私は女で一主婦で私も消費者であることが常に頭から離れないので、どうしても、物事の判断基準が『お客さま寄り』になってしまうのです。
いい材料、安心な材料、本当に美味しいもの。お客さまが食べて幸せな気持ちになって、しかも健康増進の一助となればと思ってしまいます。それよりなにより、自分が食べたいと思うものを作りたかったのです。(実際、今でも毎日自分のところのアイスは食べてるし。)
儲けて儲けて自社ビル建てて、あっちこっちにフランチャイズで店を増やして、高級外車に乗って、自家用ヘリがあってなんて、バブルなことがしたいわけではないので。(そりゃあ、女ですから綺麗なお洋服がどっちかちゃぁ好きな方だとは思うから、多少は儲かって自分の好きなお洋服が買えたり、海外にいる友人に会いに行く回数が今以上に増えたりすると嬉しいですけどね。それは確かに思わないでもないけどさぁ。)
勿論、シングル350円は決してお安い値段ではないと思います。実際、以前実施したアンケートの中にはいくつも、『もう少しお安くなれば嬉しい!』というのがありました。確かにスーパーに行けば、100円でぼぼりのよりも大きいアイスクリームが買えるのですから。でも、材料費から考えての妥当なお値段しか頂いていないつもりです。勿論、企業努力として価格を抑えることができるようにしていきたいとは常に思っています。品質を落とすことなく!そうです、価格を落としても品質を落とすことなく!
そして、お商売として正当な利益を得ることで、今後ますますお客さまに喜んでもらえるお店なり施設なりを創れることができたら、それは確かに本望です。ですから、うちはこのデフレのなかでも値下げはしません。安く販売するためには、安い材料を使わなければ作ることなど出来るはずがありません。そして、安い材料というのはそこには何か仕掛けがなければ、安くなんかできっこないんです。安い手間・安い愛情しか与えられていないものだと思うのです。
うちに材料なり商品を卸してくれたり納めてくれている会社さんなり農家さんなり輸入業者さんはみなさん、良い意味でプライドを持っている方ばかりです。「販売力や資本力だけで考えるのではなく、愛情を持って販売してくれる所としかお取引はするつもりはありません。」とおっしゃるところばかりです。
ですから、そういう方々とお仕事出来ることを誇りに思い、私も大事に商品を売っていこうと思っています。私は、安い愛情しかかけられていない食品を食べたくないですから。
少しずつではありますが、色々なことを改善していくつもりですので今後ともよろしくお願いします。
そして、何か気がついた点・質問等がありましたら、お気軽にメールでお知らせ下さい。
では、ここからはな〜んだ、そうだったのか、ぼぼり誕生のお話。
まず、ぼぼりという名前の由来からお話しましょう。この名前、余りにも変なのか以前はお客さま皆さんによく聞かれました。
実は、この名前は、イタリアのフィレンツェにある最古のイタリア式回遊公園の名前からとりました。
だから、由緒正しき名前なのです。表記すると、BOBOLIで同じなのですが、正しくイタリア語の発音をすると『ボーボーリ−』となるはずです。でも、それだと音として間延びした感じになるし、覚え難いかな?と思い、敢えてローマ字読みを採用しました。ぼぼり 、ちょっと変わった名前の方が一回覚えたら忘れないかも!?と思ったのも事実です。
イタリアは、アイスクリーム発祥の地です。(最近の歴史では、アイスクリームの発祥の地は実は中国だということになっているらしいのですが。少なくとも、私が学生をやっていた頃にはこのように習ったものです。)だからそのアイスクリーム発祥の地=イタリアに敬意を表して、何かイタリアにちなんだ名前にしたいと思ったのですが、いかんせんイタリアに行ったことのない私は(アイスクリーム屋のくせに((^^)) ドーモ、スイマセン。行ったことないんです。)、仕方なく、イタリア旅行のためのガイドブックを参考にすべく、ペラペラと見ていました。その時に何気なく目に飛び込んで来たのが、BOBOLI。
何が決め手になったのかと聞かれると本当に困ってしまうのですが、もう、直感としか言い様がないですね。
「これだぁっ!!!」
「これしかないでしょ。」
高名なグラフィックデザイナーの先生がつけて下さったという話が前任の者によってまことしやかに流されていましたが、それは嘘です。私がつけたこの名前を、「面白いね。いいよ。そんな名前どっから見つけてきたの?」と言って褒めて下さったのは事実ですけれども。しかも、グラフィックデザイナーは絵的なものをいじる人で、コピーライターなわけじゃないでしょ。(そこに、まずもって間違い=嘘があると思いませんか?)(あっ、まぁね、優秀な人はグラフィックと一緒にコピーしちゃう人はいるには居ると思うけど、通常は別作業です。)
ぼぼり。
ね、一回聞いたら忘れられないでしょ?でも、いい名前だねと褒めてくれる人もかなり少数派だけど。
ダイレクトメールとかは思いっきり当店の名前を間違えてくれたりするけど、「ぼりぼり」とか「びびり」とか「こぼり」とか「ぼーぼり」とか、、、それでも私は、気に入っています。出来るだけ早くイタリアのその名前の由来になった地を訪れなければと、これは任務だと思っているんですけどねぇ。
なかなか実現しませんねぇ、イタリア行き、、、
そして1993年12月、長野で1号店がオープンしました。
アイスクリームを自分で作ろう!と思ったきっかけは、ただ単純に子供のころからずっと、アイスクリームが大好きだったから。シンプルです。理由は。自分の食べたいアイスクリームを作りたかったんですよね。そして、アイスクリームやさんになれば死ぬほど食べられる!と単純に考えました。子供みたい!?
それと、一回目の結婚をして移り住んだ時に住んでいたところから車で1時間ちょっとのところに、栗と葛飾北斎で有名な町があって、そこに「超」が付くくらい有名なアイスクリームやさんがありました。
専業主婦で暇だったその当時の私は、未知の土地に早く慣れてみんなにとけ込もうと努力していた所だったので、テレビや口コミ・タウン誌で地元の情報を集めては東に上手い店あれば行き西にいい山菜のある沢があれば行き、北に上手い蕎麦の店があれば行き南に見事な花があれば行き、行きたいところにひたすら連れて行ってもらうような日々を送っていました。(秋にはキノコ狩りにも行きました。)いやぁ、あの頃は楽しかったなぁ。
私の仕事はリポーターか?ってくらいあっちこっちにひたすら行きまくって、食べまくってその合間に家事をするって感じでしたから。遊んで暮らしてたってことか?今となってみると、そうとも言うって感じ。
そしてそんな食べ歩き、見て歩きでそこの超有名なアイスクリームを食べた時に、「こんなに美味しいものが、まだ、あったのか!」とそれまで東京中のいろいろなアイスを食べてきたはずの私でも、がつんとやられたのでした。かなりショックでした。ショックのあまり「どうしよぅ」と思いました。どうしようと思ってもどうしようもないのに。
しかも、そのお店のオーナーは当時23才。
私は26才。「私よりも若いのぉ?」それも、かなりショックでした。
そして何かの雑誌で見た彼女のインタビューには『私、アイスクリームが本当に大好きなんです。でも、私が住んでいるところにはアイスクリームやさんがなかったんですね。で、いつも東京に遊びに行くとアイスクリームを買って帰ってくるんですが、結局家にたどり着くまで待切れなくて特急の中で大きなパイントを抱えて食べちゃうんですよねぇ。』っていうのを読んで、私ったら、アイスが好きな気持ちでは負けちゃあないぞぉ!何おぉ!!!
私より若い女の子が出来ることを私が出来ないはずはない!って、思っちゃったんですよねぇ。私、負けん気が強いから、、、それと、アイスが好きってことでかけちゃぁ私の方が上だろ、絶対!っていう完全に根拠のない自信と気持ちがあったので。で、私に大きなショックを与えたこのアイス以上のアイスを作るというのが私の人生におけるミッションに、その時なったのでした。
でも、その若きオーナーである女性は後から聞いたら地元の名士のお嬢さんで、おとうさまが土地持ちお金持ちでとても恵まれた環境でそのお店を開いていたようで、当然観光スポットとしてお店に観光バスが停まるようにコースに組み入れたりすることはたやすかったわけで、そりゃ有名にもなるっちゅうのって感じなのですが、はっきり言って、そうとは知らない私は随分と無茶なことをしたものです。
私は、昭和40年生まれ。1965年。東京オリンピックの開催された次の年。高度成長期ばりばりのさなかに生まれ、育ったのです。東京近郊、今でこそベットタウンとしては近い方ですが、その当時の私が住んでいたところは江戸時代、徳川家の馬を飼育する馬場だったこともある、ということを彷彿させるに十分な田舎状態。田んぼあり、畑あり、肥えあり。常磐線で上野から30分くらいの大きくもなく小さくもない街。
それでも、私が小さい時には、アイスクリームはとても贅沢な食べ物。今程こんなに気軽に、食べることができなかったものの一つです。
だってアイスクリームといえば、夏だけの食べ物で、今のように冬にもアイスを売っている店を見つけることが出来ないくらいだったのだから。(ぼぼりのようなアイスクリームの専門店なんてなかった。信じられる?)資生堂パーラーのような、高級な喫茶店を除いては。
そ して、売っているような店もなければ、冬にアイスクリームを食べようとするような人も、まずいなかったですね。何故なら、昔(と言っても30年前)、冬はもっと寒かった!暖房機具も今ほど性能が良くなかったし、住宅事情も悪かったし。(手も足も全部の指がしもやけに悩まされるような恐ろしいまでの冷え性体質の私が、冬にアイスを食べたいと積極的に思えなかったとも思いますが。しもやけに悩まされたあの頃はお夕飯の支度をした際に出る、ホウレンソウのゆで汁で手を暖めるように言われて洗面所で黄緑色のお湯の中に手を浸していたっけなぁ。小学生の頃の冬の記憶といったら、ホウレンソウのゆで汁の匂いとともに蘇るのも無理ないくらいだもんなぁ。)
じゃぁ、アイスはどうやってくるかといったら、それはある日突然やってくるのだった。
昔は春になると、お菓子屋さんがお店の入り口にあるガラス戸をスライドさせるタイプのショウケースにアイスクリームを入れたもんだ。冬の間は、ショウケースにはモスグリーン色をしたビニール製のカバーがかけられて、南京錠がかけられていたっけ。覆いがはずされ、綺麗に掃除されたショウケースを見ると、アイスクリームシーズンが始まるのだなぁと、子供ながらに思ったものだった。
夏がくると、ショウケースにはスライド式の扉の近くまで満パンにアイスクリームが入れられた。それが秋が近づくにつれ、いつの間にかアイスクリームの残りが少なくなり。いつしか、底の方にほんの僅かになり。そして、木々の葉がすっかり落ちてしまった頃、ショウケースには覆いがかぶせられる。1年はそうやって巡っていった。
扉をスライドさせるタイプのショーケースの中に入った、アイスキャンディーは身近かな存在だったけど、リッチなテイストのアイスクリームは、土曜日の午後銀座にお買い物に行った時に、デパートの最上階にある大食堂でお子さまランチを食べた後にウエハ−スと一緒にお匙で大切にすくって食べるものでした。銀色の足の付いたアイスクリームカップに、ほれぼれしたっけ。
家ではそんなリッチなアイスクリームを食べるなんて考えられなかった。
その当時好きだったのは、ゴムのなかに入ったミルク味の半分シャーベットのような質感のアイス。それと、メロンの形をした柔らかい塩化ビニールだかプラステックの容器に入ったメロンシャーベット。これが私のお気に入りだった。ミルク味の方はちゅうちゅう吸うタイプのものだったんだけど、今ほど技術が良くないので、アイスにゴムの味が混ざってしまって子供心にもやだなぁと思ったし、メロンシャーベットの方はかなりの確率で蓋が開いていたりして上の方がじゃりじゃりしていたりして、それも子供の心を傷めたりしたんだけど、それでもやっぱりアイスは好きだったなぁ。でも、なんとなく駄菓子の延長のような感じが否めないのが私の子供のころのアイスだった。
そんなアイスクリーム事情を一変させる出来事、それがレディーボーデンの出現だった。レディーボーデンのアイスクリームがスーパーマーケットで買うことができるようになると、俄然家庭におけるアイスクリーム事情は変わってきて、食卓にアイスクリームの乗る回数が増えることとなる。
アイスキャンディーではない!アイスクリームだ!月に、1〜2回は家でアイスクリームを食べるようになった。
アイスキャンディーじゃない、アイスクリームだ!なんて、幸せなんだろう。子供なのに本当にそう思って、うっとりしたのを覚えている。
匙ですくう時にできるアイスクリームのバラの蕾のようなロールが好きでした。(でも、すくうの大変なんだよね。手が痛くなっちゃって、固いから。)でも、おうちで取り分けてもらうと、ガラスの器にちんまりととても上品だった。なんで、もっと沢山よそってくれないんだろうと、意地汚い子どもだった私は、いつも母の手元を恨めし気に見つめ、どの器が一番多く入っているか注意深く見のがさないようにしたものだった。そして、いつの日か大きくなったらこのホームサイズの大きなパイントを独り丸抱えで食べるのが、私の密やかなるそして切実な夢となったのだった。
中学生の時は、デーリークイーンのソフトクリームが大好きだった。なかでも、ボリュームたっぷりのバナナスプリットに目がなかった。ほんと、やっばいくらい食べてたなぁ。今やDQといえば、この辺では新宿の映画館の一階でしか目にしないくらいマイナーなイメージになってしまったけど、中学時代は私にとってはもう夢のような場所だった。キャラメルソースの中にソフトクリームを真っ逆さまにずぼっと漬けたのも、だぁ〜いすきだったなぁ。
高校生になり、自分のお小遣いで学校帰りにサーティワンアイスクリームに行くことができるようになった時も、嬉しかった。高校生の時のお小遣いはすべてアイスクリーム代と化し、更に私に貯えられた、脂肪という細胞になって。だって、その頃のお気に入りといえば、ロッキーロード(チョコレートのアイスクリームの中にマシュマロとナッツが入っていたと思う)と、ストロベリーチーズケーキのダブルとかだったんだもん。そして、サーティーワンのキャンペーンでもらえるプレミヤ商品は、誰よりもいち早く入手していったけ。もうね、ほとんど毎日通っていたからね。お店のお兄さんに、「 今日で何日連続だね。」って、言われちゃうくらいだった。あの当時、船橋の西武デパート1Fにあったのサーティンワンのお兄さん、今頃どうしてるかなぁ。結構いつも大盛りにしてくれていたよなぁ、あのお兄さん。校則では禁止されていた学校帰りの買い食い、いつもしていたこと、先生方本当にごめんなさい。
そして私が大学生になると、西麻布の交差点の所にホブソンズができた。あれはちょっとした事件だったな。社会現象にまでなっていたもの。サーティーワンよりもナチュラルなメニューが多くて、材料に吟味したようなイメージ戦略のアイスクリームに、1日も早く食べたい!と思ったけど、いつもものすごい行列で、その行列にめげてしまってなかなか食べることが出来なかった記憶があります。あまりの混雑ぶりに、他店からのやっかみなのかサクラを並ばせたとか並ばせないとか話題になったけど、とにかく連日大行列だった。あれ、本当にサクラだったの?
西麻布には、もう一つとてもパリっぽい、大人の多い素敵なアイスクリームカフェがあった。ガソリンスタンドのもう一本広尾寄りの、やや左カーブの横道の緩い坂道にひっそり佇んでいた。メインストリートをちょっと入った裏通りにあるのも、好もしかった。知る人ぞ知るそのカフェはいつも、いかにもアパレル関係って感じの大人のカップルがゆったりとマダムがアイスクリームを口に運んで、ムッシュがエスプレッソを飲んでいたりして、またそれがとても格好よくて絵になっていて憧れたものだった。ここは日本?みたいな空間で、私も、こんな格好いい大人になりたいなぁって。でも、私は一人その空間で大いに浮きまくっても、いろいろな種類のアイスをかっくらっていたっけ。だめだこりゃ、、、って感じ。
そして、広尾にはナポリアイスクリームがあった。
ハーゲンダッツが上陸した時にも、衝撃を受けたっけ。
大学生の時は大学が渋谷に近かったこともあって、よく渋谷で食事をしたり飲み会をしたりコンパをしたりしたので、飲んだ後には必ずアイスを食べるのが慣わしだった私たち、今センター街の交番の向かい側ゲーセンになってしまった場所が昔アイスクリーム屋だったんですがそこが飲みの後のお約束でした。しかもそこは、自分の好みのアイスを作ることが出来るアイスやさんで、みんなそれぞれ独自のマイFAVOURITEフレーバーがあって、バニラのアイス生地にフルーツ3種類を練り込んでもらうのが私の定番だったっけ。確か『スティーブス』って名前だった。(のちにこのアイスクリームやさんをやっていたのは「めいらく」さんだったということがめいらくの偉いかたとお話していて判明。ひとしきりこの話題で盛り上がりました。)
池袋西武の地下には有名なジェラテリアがあったっけ。いつもすごい人だったなぁ。
ともあれ、東京のアイスクリームやさんをあちらこちら食べ歩いたことには間違いない。もっとも、アイスクリームやさんだけじゃないけど。
そういえば小さい時から、何故か味にうるさい子どもだった。しかも、大食漢だった。そんな私を母は「卑しい」と、かなりたしなめられたものですが、、、
父方の祖父が中華料理店を営んでいた関係で、子供の頃から厨房は私の遊び場でもあった。昔の中華料理やさんには、今考えるととっても不思議なメニューがあった。クリームソーダやチョコレートパフェ、ソフトクリームなど。だから私は小学生の時には既にそれらのメニューを作ることが出来たし、ソフトクリームなんて3才から自分で作らせてもらっていた。もっとも、機械に背がとどかないからコックさんにだっこしてもらって作るんだけど。ラーメンだって作らせてもらった。
なんてったって、オーナーの大切なお孫さんの私は、厨房で働くコックさん達からはとても可愛がられた。(当然だけど、、、。今思うと本当に幸せな環境に育ったものです。)と、同時にとっても邪魔くさい存在だったと思う。(これもまた事実である。)厨房、しかも中華とくれば、子供にとって危ないものがとっても沢山置いてある。にもかかわらず、好奇心旺盛なおじょうちゃんは、恐いもん知らずだから、我が物顔で厨房内を闊歩していた訳で、コックさん達は気が気じゃなかったと思う。今となればそう思えるんだけど、その当時の私には、間違いなく厨房はアミューズメントパークのようだった。そして当時の記憶として、何故か開け放たれた厨房の勝手口から差し込む強い陽射しを、ものすごく鮮明に覚えているんです。何となぁく、けだるい午後で喧噪の後ののんびりした厨房の中に漂う空気。ゆるゆるした感覚。そして野良猫がゆうゆうと空き地を歩いていたっけ。ラーメンスープの香りと共に。だからなのかなぁ、今でもラーメン好きなのは。本当に好きだったなぁ、松華園の厨房。
母方の祖父も料理好きの凝り性な人だった。アメ横で魚を丸ごと一匹買ってきては、各部位におろすという作業を、よく外に作られた流しの水道でやっていた。昔の家には大抵泥付き野菜やなにかの下処理をするための流し台が外にもあった。小さい頃から、『何故なぜちゃん』(注:なんで?なんで?と色々なことを信じられないくらい次から次へと質問する子供のこと)だった私は、よく祖父の後にくっついては魚をおろすのをじっと見つめ、「それはなに?」「どうしてそうするの?」「これはなにになるの?」と質問攻めにし、寡黙な祖父を閉口させたらしい。
そして、幼少の頃の私の家は父の仕事の関係上本当に贈答品の多いうちだった。社会人野球の選手をしていた父は現役を引退するとそのチームの監督となり、監督も引退した後はその会社に入社して、野球で培った根性と努力で今度はサラリーマンとして戦い始めた。高度成長期の自動車産業。
しかも資材課、お中元お歳暮の時期になるとまるまる一部屋が倉庫のようにいろいろなデパートの包みの山であふれかえっていた。それはそれはすごい量だった。自分のうちでは消費しきれないくらいの量だった。菓子、サラダ油、洗剤、コーヒー、酒、シーツ、タオル、、、いろいろなものが送られてきた。そして、その中の菓子類は当然私と弟のおやつだ。泉屋のクッキー、神戸牛のビーフジャーキー、風月堂のゴーフル、ヨックモックのお菓子の詰め合わせそんなものが私たちのおやつだった。今思うと本当に贅沢だった。駄菓子やに行ったことがなかった。でも、その頃はお小遣い握りしめて駄菓子屋さんに行く友達が、本当に羨ましかった。
うちは両親揃って酒飲みではない。よって贈答品の中にはかなり高い洋酒などが送られてきても、うちでは一切手を付けることなく、酒好きだった母の義兄に数本付け届ける以外は、はっきり言って不要。
だから、それらの品々をデパートの外商に持っていくと商品券に替えてくれたのものだった。
昔のデパートは大らかだったよなぁ。そして、そうやってお取り替えに行くときには必ずデパートの最上階にある大食堂でお子さまランチだ。きれいなふりふりのお洋服を着せてもらって、しかも、美味しいものを食べさせてもらって、銀座や日本橋の三越に行くのは本当に楽しかったなぁ。
そんな幼少期を経て、小学校の高学年の時にはレディーボーデンに飽きたらず、自分でアイスクリームを作っていました。その時は、バニラとモカの二種類を作っていました。うちの母はとっても痩せた人で、非力だったので、子供でも私の方が力があったんでしょうねぇ。母は口だけ、私がボウルと泡立て器を抱えて格闘するという図式が出来上がったのでした。冷凍庫の匂いが付いてしまって、パーフェクトに美味しいという代物ではなかったのですが、それでも自分の家で作ったアイスというのは嬉しいものだった。しかも、一回につくれる量は限られているので、結局お腹いっぱいアイスを食べることはこの時も叶わぬ夢だった、、、今でも、その当時アイスクリームを作る時に参考にしていた雑誌の切り抜きはとって置いてあるんだよね。30年以上経って色あせてはいるけれど。たぶん、一生捨てることは出来ないね。そのうち、額にでも入れてあげようかなぁ。不思議だよね、そんな雑誌の一ページが人生を決めたり、変えることもあるんだから。
そして中学生の時から台所にしばしば立つようになり、非力な母に代わって力の必要なハンバーグや肉団子系のものは私の仕事となった。何ていったって、よく練らないと美味しくないからね、ああいうものは。その頃バイブルのように、寝るときまで抱えていたのが、料理研究家の草分けのようなかた、城戸崎愛さん通称ラブおばさんのお菓子の本。今は、私の手元にないのだけど、あの本は本当によく読んだものだった。オーブンはうちになかったので、お菓子の本を読んだって、何も作れる訳じゃなかったんだけど、お菓子が持つその夢のある雰囲気やブルジョワな空気やまだ見ぬものへの単純な憧れが、私をその本の世界に引き込ませたのです。いつかは私もお家でケーキを焼くんだ、みんなをもてなすんだ、好きな人にPRESENTするんだ、と思って毎日毎日飽きもせで、ページをめくったものでした。それこそ、すりきれそうなくらい。
高校生になるとお弁当を自分で作って持っていくことに。でも、朝から料理するのって私の場合、「何作ろう?」「どんな風にすれば可愛いお弁当になるかなぁ。」って、気合いはいり過ぎてお弁当作るだけで疲れちゃうんだよね、勉強どころじゃないって感じ。そのうち、手を抜くということを覚えたり、購買でパンを買うということも覚えるのですが、最初は大変だった。
そして花の大学生、大学生時代にはアイスクリームだけじゃない、本当にいろいろなものを食べた。そのころの私は配膳会に所属していた。配膳会とはいわゆるサービス業のプロとして都内の高級料理店やホテル内のレストランに派遣される仕事だ。人材派遣のサービス業版。で、その当時で時給¥1,260で仕事をしていたものでした。大学生なのに、、、だから、かなりお金を持っている大学生でした。(もっとも自宅だったから、食費もなけりゃ何もない、稼いだお金は全部自分のお小遣いなんだから、当然だけど。)加えて、当時つき合っていた人が社会人だったこともあって、今まで行ったことのなかった、色々なおっとなぁ〜な店に連れて行ってくれたので、、、生意気な大学生でしたね、ホント。
お昼にフランス料理を一人で食べるということを覚えたのもこの頃。だって、夜、若い女が一人でフランス料理なんて食べていたらそのお店にもご迷惑がかかるだろうけど(昔はフランス料理やさんって、もっと格式が高くって敷居が高かったんです。)、お昼間なら許されるんじゃないかと思い、頑張って一人でフランス料理食べてましたねぇ。一生懸命、背筋正してみすぼらしくならないようにかっこよく見えるように、マナーに気を付けて食べてました。
アルバイトで所属していた配膳会って、本当だったら派遣業なので、今日は赤坂のステーキやさん、次の日は銀座の中華料理屋さん、その次は神楽坂の宴会とかあちらこちら行かされるものなのですが、私の場合半蔵門にあるあるホテルの中の中華料理店に一回入ったら、マネージャーさんに気に入ってもらえて、そこの専属という形で仕事をもらっていたので、普通のバイトとなんら変わらないような状態で、いつもそこの中華料理やさんに行って働かせてもらってました。ごくごくたまぁに、そこのホテルの結婚式の宴会とか、忘年会の宴会とかに入ったこともあったっけ。自動車業界の集まりがあったときに、私がドリンクの係りで水割りとかをサービスしていたら、フランスのビジネスマン(既婚・妻子あり)に何故かとても気に入られて、「日本滞在中に一回一緒に食事をして下さい。」ということだったのでの中華料理店マネージャーに了解をもらってしかも私に何かあっちゃいけないというマネージャーの配慮のもと、ホテル内のレストランで食事をしたこともあったなぁ。(ちょくちょく、誰かが私たちの様子を何気なぁく見に来たもんなぁ。)でも、彼も私も英語で話をするんだけど話が乗ってくると単語が解らなかったりして黙り込んじゃって、この気まずい空気を何とかしてくれって感じで、いったい何を食べたのか覚えてないんだったけど。楽しい思い出です。しばらくその方とは文通しました。
そうそう、人が足らなくなってそのホテルのラウンジに入ったこともあったっけ。カクテルブックと首っ引きでシェーカー振ったりもしたなぁ。あの時に出してたジントニックや、マティーニ美味しかったかなぁ。頑張って作ってはいたんだけど、、、家でも練習したりして。
でも一番沢山働いたのは、中華料理のセクション。
子供の頃にもいりびったっていた中華の厨房だったが、またもや中華の厨房と深ぁい関係を持つことになり、私の食に対する興味を大きく開花させることになるのでした。そこは、香港から招かれたシェフもいて、前菜だけをつくるセクション、揚げ物だけを作るセクション、デザートだけを作るセクション、焼き物だけをつくるセクション、そしてメインはなんていったってあの中華鍋が力一杯振られる見事な技には、本当に見惚れました。そして、普段うちでは目にしないような食材の数々に興味津々でコックさん達が休憩に入っているときには、質問したりして。横浜の中華街に足繁く通って、厨房でみた特殊な食材を探し求めてお家で試してみたりしたのもこのころです。あの当時は、生のライチは5・6月にほんの一瞬横浜の中華街の路地にある八百屋さんの店頭にしか姿を見せないものでした。だから、高価でもついつい旬の味を求めて横浜まで車を走らせたものです。そして、紙袋に入れられたライチを皮をむきむき中華街を歩いたものです。あの頃の中華街は古い建物も結構あって、今よりキンピカしてなくて、港町特有の猥雑さや懐古=ノスタルジーや異国情緒があって良かったなぁ。
そして、その後は冒頭で触れたようにアイスクリームを自分で作りたいと思い至るようななるわけです。お店を持つというのは大変なことです。クリアしなければならないことがたくさんあります。でも、一度は自分の城を持ってみたいと思っている人は多いようです。実際今の若い人はかなり、起業に興味があるようですし。でも、持ちたいと思ったからといって誰でも持てるものでもありません。確かに、若い私がお店を持つことが出来た背景として、当時結婚していた相手が私よりかなり年齢が上で経済的にかなり恵まれた環境にあったこと、田舎だったので土地があったこと、当時私は子どもがいない専業主婦で身体と時間に自由がきいたこと、若さゆえ無鉄砲と思われることも畏れずチャレンジできたこと、これまた20代ということで体力があったこと、こういったいろいろなプラス要因が絡み合ってお店を持つということが出来た、単にラッキーな人間かもしれません。しかも、12月のオープンにも拘わらずすぐにメディアに取り上げてもらって、一躍地元で有名店になったりして、運が良かったことも事実でしょう。
よって、始めは資金提供だけで、お店の経営にはさほど熱心ではなく傍観者だった人が、一年間に何度もテレビに出たりし脚光をあび、お客様から慕われる私がだんだん目障りになって、しかもお客様が沢山いらしてくださるのを目にしたことで欲が出てきて「金を出したのは俺で、お前じゃない。だから、俺がオーナーだ。」と。
さらにお客様一番、という考えでやってきた私とは意見が対立するようになって。私はお客様がいらしたら、「ありがとうございました。またお願いします。またいらして下さい。」と言っていました。
でも、彼は「なんでお礼を言うんだ!うちのアイスはお願いして買ってもらっているんじゃない。売ってやっているんだ!」と。考え方の違いは従業員の人達に対しても顕著に現れました。
私は、『働いてもらっている。もしくは一緒に働いている。』というスタンスですが、彼は『働かせてやっている。』という考えでした。ですから、私が手が空いたときに店内の掃除をしようものなら、烈火のごとく怒られ罵倒されました。「それは、連中の仕事だっっっっ!仕事が違う!店長はそんなことをするためにいるんじゃない。それを連中にさせることが出来ないお前は指導力が足りない、無能なやつだからだ。」と。でも、私は一人でお店なんてやっていけるはずもなく、色々な人の助けや協力があってはじめて成り立つことだと思っているのです。(だから、3年ほど前、私が復帰したときにうちのお取引業者さんや機械屋さんがとても喜んで下さいました。前は、お店に来るのが苦痛で電話で注文をもらえばお商売で仕方なく来ていたし、いつでもお取引がなくなっても良いし、むしろなくなって欲しいとすら思っていたけど、、、と。)
ここまで考え方が違うのに、一緒に仕事をするなんてことは無理です。結果、私が考えやりたくて始めたことなのに、裏方にまわされ表舞台には一切出ないようにしたりさせられて(だから、うちの店舗をお世話して下さった不動産やさんですら、私がただの使用人と思っていたいくらい、、、)、その挙げ句ついには私以外の人の手に渡さざる終えないような悲しく辛い時期もありました。勿論、ここに書くことの出来ないくらい一杯一杯色々なことがありました。事実はきちんと伝えてみんなの誤解や疑問を解決させたい(やっぱり以前のお店を知っている人は、ぼぼりに何があったの?と思っている人もいるし、私に聞いてくる方もいるし、)けど、あまり苦労したとか大変だったなんてネガティブな話は、聞く方も滅入るし、パワーダウンしちゃうし、見苦しいからこのくらいで、、、たぶん、これで理解していただけたのでは?とも思うし。
自分が産んだ子供のようなこのお店をまたきちんと責任をもって見ることが出来るようになって本当に心底、良かったと思っています。協力してくれたり、力を貸してくれたり、時に私の泣きにつき合ってくれた私の周りの優しい友人達にこの場をかりて心より感謝の意を伝えたいと思います。みんな、本当にありがとう。
こうして振り返ってみると、結局は小さいときに「お腹いっぱいアイスが食べたい!」と思っていたその夢を叶えただけなのかも知れない。でも、その時の子どものような気持ちを忘れないようにしながら今後も楽しくアイスを作っていきたいと思っています。夢はまだ、終わっていません。挑戦はまだ続きます。いつまでも皆さんに愛されるお店であれるように、精進して参ります。
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